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2014年12月21日日曜日

自分が育てた稲藁で正月飾りを

「ボクサケの藁で正月飾りを作る」ワークショップをトミケンさんが開いてくれるとのことで、参戦。

備忘録も含めて、記録。

輪部作り

  • 藁の芯部分だけ抜粋して、60本x3束を作る。

   藁の中央で輪ゴムで仮止めした後、根元側10cmで針金で止める


  • しめ縄にする(4人作業)。

   根元側を上にして、3人が各束の根元(針金より下側)を握る
   3人がそれぞれ各束を半時計回りに絞っていく(上の人も半時計方向に回す)
    ※この上の人の半時計回しが甘かったのできれいにいかなかった
   しめ縄の先端を針金で止める
    ※ドアなどにフックできるように輪っかを作りながら止める

  • 輪っか状にする

   「人」ではなく「入」になるように、半時計周りで穂先側が上に来るようにする
    ※「人」にしてしまうとお金が出て行ってしまうとか
   針金で固定

  • ハサミでケバケバを切って体裁を整える

中心縦部作り

  • 藁の芯部分だけ抜粋して、24本x3束を作る。

   藁の中央で輪ゴムで仮止めした後、下から50cmくらいで針金で止める
  • 穂先側の部分を霧吹きで濡らす
  • 三つ編みを16回して針金で上部を止める(3束全て)
   「人」ではなく「入」になるように
  • ハサミでケバケバを切って体裁を整える

ここらでちょっとランチブレイク。



輪っかと縦部の合体
  • 輪の下側(6時の方向)のしめ縄の境目に竹筒を入れる
  • 針金をU字にして竹筒に通す
  • 縦部の1束をビニール傘袋に入れて針金にひっかけてしめ縄を通す
  • 別のねじり目で左右に1束づつ通す
  • 3本の縦部位で1回三つ編み
   「人」ではなく「入」になるように
  • 後ろ側でも1回三つ編み
  • 先端を輪っかの12時のところで針金で固定
  • 縦部の下側を3カ所藁で縛る
飾り付け
  • 紅白のひらひらを「入」になるように重ねて、上辺が平らになるように折り曲げる
  • ひらひらの上辺にセロハンを折り曲げてかぶせてホチキス止め
  • セロハンの隙間に針金を通して、縦部の中央の束に固定
  • 伊勢エビなんかの飾り付け
  • 上を扇形にしたり、ハサミでケバケバを切ったり、体裁を整えて完成。

2014年12月19日金曜日

概念ではなく、リアルに死を感じること

寒い季節がやってくると、荻田氏の北極挑戦が近づいてくる。
2011年から応援してる、今北極点無補給単独徒歩到達に世界で最も近い男と言われる冒険家。
彼の話や文章がこの季節になると、彼の心情、特に複雑な内面を語ることが増える。

これ、ドーバーに向かう時、カタリナに向かう時、そういう時の自分の行動にすごい似ていて、しかも葛藤する内容も似ていてとっても共感する。
例えばそれは、
『我々は、昔の人たちよりもできる事が増えているような気がしているが、その一方でできなくなっている事の方が増えているのではないか!?』
とか、
『20世紀以降の探検冒険登山の世界は、何か「自己啓発の材料」のように利用されている部分はないだろうか?そんなに陳腐なものだったのだろうか?』
とか、
『この(火傷の)跡を見る度に「オレは自分で間抜けなミスをして死にかけて、いろんな人に迷惑もかけてしまった」と反省する事ができます。』
とか。。。。


これって、概念ではなく、リアルに死を感じてるってことなんだろうなあ、って思う。
実際にはまだ日本に居て、まさか今日明日に自分が死ぬとは思ってもいないで過ごしてる。
でも、過去の挑戦から「死」は概念ではなくリアルな手触りのある存在として、常に自分の傍らにあるという感覚が現れてくる。
それは、迫りくる死の危険に対して人間の本能として普段使えていない五感が開く、ということだと思う。

自分のあらゆる感覚が鋭敏になってくる。
以前、とっても共感したのが、日本に帰ってきて電車に乗った時、いろんな広告やら車内放送やら周りの乗客が話すものが全て日本語で理解できてしまって、情報が多すぎて気持ち悪くなったという話。
多分、自分の感覚が研ぎ澄まされていて、情報量にオーバーフローしてしまう感覚なんだよね。

カタリナ海峡に行く直前に、こんなことを書いていました。

「本日、ボクサケ田んぼの草取り&前半戦打ち上げBBQ。
自分の田んぼでも草は取るし、ボクサケ田んぼでも今までも草取りしたけど、なんかいつもより深いところまで自分の為す好意が刻まれる気がする。
ドーバーの前も低体温症の恐怖からそういう過ごし方だったけど、
今回もサメの恐怖から同様の過ごし方をしています。
今やることは全て、人生最後かもしれない。
なんと言うか、自分の感じること、考えることの、ざっくり言うと今生きているということのふちどりがくっきりする気がします。
例えば、事故にあった瞬間スローモーションになると言うように、それくらいいつも濃く生きられたらなって思います。
死を現実に捉えながら、日々を過ごすということの威力と可能性、人間として持つポテンシャルの底知れなさをもっと自分の日々に取り込んで、活かせたら良いのに、と酔っぱらいながら今思っています。」

なにはともあれ、出発日は一日一日近づいてきて、そこまでは彼の場合は資金調達に奔走することになり、気づけば出発直前で、そのころまでに徐々にこういう葛藤はスイッチが切り替わって感じなくなっていることでしょう。

2015年の挑戦も、がっつり応援したいと思っています。

2014年12月14日日曜日

民主主義について思うこと

民主主義の象徴とも言える、多数決。
民主主義ってのを錦の御旗として、それが国の行く末を考えるにおいて本当に良い選択なのだろうか、と個人的に疑問に思う、最近。

だって、多数決による意思決定って本当に成功に結びつく可能性高いですか?
多数決で決めたんだから、と納得してしまっているけど、なんか思ったより結果は悪い方向に行ってない?
むしろあの時皆に同意してもらえなくて、ボツにした案の方が良かったのでは?
という経験ってみんな結構あるんじゃなかろうか?

僕らが遭遇するような仕事の場面での市場の分析や人生の選択なんかよりも国の行く末を考えることってずっと複雑なもののはず。
現代の市場や社会というやつは、「創発性」や「自己組織性」という性質を持つと言われ、明日何が起こるか、全くわからないというケースが結構多い。
だから、思うように動かそうとしても動かない。
今、なんだか電通の戦略を使って、人心掌握してるように見せかけているけど、そんなの所詮国内だけの話。
そして、向かってる方向性が正しいかどうかは人心掌握とは関係ないしね。
これが、何を意味するかと言うと、分析や推理による「将来予測」や「将来計画」が意味を失ったということだと思うのだ。
そして、重要であればあるほど、分析や推理をすることが困難で、多数の意見が成功を保証しない可能性が高い。

「右肩上がり」の高度経済成長と「護送船団方式」の保護規制市場でしか通用しない「合意形成」の幻想なんて捨てるべきなのだ。

ではどうすべきなのか?

分析力や推理力は「一人の個人」が単独で発揮する能力よりも、「複数の人間」が集団で発揮する能力の方が一般的に高いと言えると思う。
一方で、直感力や洞察力については優れた「一人の個人」が発揮する能力の方が「複数の人間」が集団で発揮する能力よりも高いことが多い。
そして、複雑性の高い現代社会というやつは、後者の直感力や洞察力の重要性が極めて高いと思う。

だから極論をすると、議会政治なんてやめちまって専制政治にした方がずっとスムーズに良くなる可能性を秘めていると思う。
その点で、安倍晋三の舵きりは肯定されるべきものなのかもしれないが、その築こうとしている独裁体制を口先では中途半端に民主的にやろうとしているところが、嫌みで滑稽で、しかもそれがへたっぴだから世間にバレバレなのに恥ずかし気も無くそのまま進めてる。
それを置いておいたとしても決定的にダメなのは、重要なところはその「一人の個人」が優れた能力を持っていることが前提なのだけど、安倍晋三という人にはその能力を一かけらも感じないというところだと思う。

そんなことを思った投票日。
今の政権に「No」という意思表示を少なくともするために投票してきた。
やはり2012年に比べて16時現在で投票率は低いようだ。
政権与党に有利な状態。
なんだかいろんな無力感に包まれて、もう寝る。