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2014年12月19日金曜日

概念ではなく、リアルに死を感じること

寒い季節がやってくると、荻田氏の北極挑戦が近づいてくる。
2011年から応援してる、今北極点無補給単独徒歩到達に世界で最も近い男と言われる冒険家。
彼の話や文章がこの季節になると、彼の心情、特に複雑な内面を語ることが増える。

これ、ドーバーに向かう時、カタリナに向かう時、そういう時の自分の行動にすごい似ていて、しかも葛藤する内容も似ていてとっても共感する。
例えばそれは、
『我々は、昔の人たちよりもできる事が増えているような気がしているが、その一方でできなくなっている事の方が増えているのではないか!?』
とか、
『20世紀以降の探検冒険登山の世界は、何か「自己啓発の材料」のように利用されている部分はないだろうか?そんなに陳腐なものだったのだろうか?』
とか、
『この(火傷の)跡を見る度に「オレは自分で間抜けなミスをして死にかけて、いろんな人に迷惑もかけてしまった」と反省する事ができます。』
とか。。。。


これって、概念ではなく、リアルに死を感じてるってことなんだろうなあ、って思う。
実際にはまだ日本に居て、まさか今日明日に自分が死ぬとは思ってもいないで過ごしてる。
でも、過去の挑戦から「死」は概念ではなくリアルな手触りのある存在として、常に自分の傍らにあるという感覚が現れてくる。
それは、迫りくる死の危険に対して人間の本能として普段使えていない五感が開く、ということだと思う。

自分のあらゆる感覚が鋭敏になってくる。
以前、とっても共感したのが、日本に帰ってきて電車に乗った時、いろんな広告やら車内放送やら周りの乗客が話すものが全て日本語で理解できてしまって、情報が多すぎて気持ち悪くなったという話。
多分、自分の感覚が研ぎ澄まされていて、情報量にオーバーフローしてしまう感覚なんだよね。

カタリナ海峡に行く直前に、こんなことを書いていました。

「本日、ボクサケ田んぼの草取り&前半戦打ち上げBBQ。
自分の田んぼでも草は取るし、ボクサケ田んぼでも今までも草取りしたけど、なんかいつもより深いところまで自分の為す好意が刻まれる気がする。
ドーバーの前も低体温症の恐怖からそういう過ごし方だったけど、
今回もサメの恐怖から同様の過ごし方をしています。
今やることは全て、人生最後かもしれない。
なんと言うか、自分の感じること、考えることの、ざっくり言うと今生きているということのふちどりがくっきりする気がします。
例えば、事故にあった瞬間スローモーションになると言うように、それくらいいつも濃く生きられたらなって思います。
死を現実に捉えながら、日々を過ごすということの威力と可能性、人間として持つポテンシャルの底知れなさをもっと自分の日々に取り込んで、活かせたら良いのに、と酔っぱらいながら今思っています。」

なにはともあれ、出発日は一日一日近づいてきて、そこまでは彼の場合は資金調達に奔走することになり、気づけば出発直前で、そのころまでに徐々にこういう葛藤はスイッチが切り替わって感じなくなっていることでしょう。

2015年の挑戦も、がっつり応援したいと思っています。

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