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2015年12月31日木曜日

来年は、

改めて、これまで常識、当たり前と考えていたこと、教えられてきたこと、全てを自分の判断においてそれが常識、当たり前なのかを判別して、自分における常識、当たり前、普通を再定義して生きていこう、そんな風に思う。

2015年12月8日火曜日

プロフェッショナルとは?

年度末の評価面談があった。

給料分以上、役職以上の仕事はこなしている自負もあるし、周りもそれを認めているという認識があるので、すんなり自己評価通り話は終わった。

話をしていて、この職場で勤めあげるつもりはさらさらないことが見透かされているような、なかなか鋭い上司のコメントも中にはあったりするのだが、概ね上司の取るべき態度の教科書的な内容に沿っていることがうかがえるものだった。

今の室長さんは結構仕事にアグレッシブで、かなりレベルの低い今の職場にあっては、そこそこ力のある人だと思う。
が、惜しむらくはアグレッシブが故に自分で抱えすぎてしまう仕事を管理する方の能力が備えられていない。現状、プロジェクトリーダーにアサインされていることを考えると、そこは失格と言われても仕方ない状況に陥っていて相当疲弊している。

話していて「これだけアウトプットを出すのに自分の仕事をどうやって管理しているのか教えてくれ」というのを聞かれると共に「君の仕事の仕方はプロフェッショナルを感じて評価している」ということを言われる。

「プロフェッショナル」

人財育成の本やら研修なんかの場でよく聞かれる言葉だ。
 仕事のプロフェッショナルになれ!
 組織で働いてもプロフェッショナルをめざせ!
 ジェネラリストになるな、プロフェッショナルをめざせ!

でも、この「プロフェッショナル」って何?
ちょっと調べてみると、知識・教育、コミュニティ、倫理・公共、オートノミーの4つのタイポロジーによって、それは定義されているらしい。
すなわち、
・どんな風に学び、どんな知識を有している人か?(知識・教育)
・どんなコミュニティに属している人か?(コミュニティ)
・どんな職業倫理をもち、パブリックミッションを果たそうとしているか?(倫理・公共)
・仕事にどれだけ自律性をもっているか(オートノミー)

そして、フレックスナーの6つの資質論というのがあるらしい。
・知的な職業であり、適切な選択と重大な責任をもった判断を行えること
・特定分野における高度な体系的知識を有し、かつ、長期間にわたる教育訓練をへていること
・体系的知識が現場で適用可能であり、実践的であること
・知識だけで対処できない場合には、獲得している技能で問題に対処可能であること
・専門家団体を有しており、資格認定などを行っていること
・公共への奉仕を行えること

これを簡略化して、
・職務遂行上活用できる知識体系を有すること
・専門職養成のための教育課程においての訓練を受けていること
・専門職団体が存在し、それに加入していること
・高い倫理綱領をもつこと
というエツィオーニの定義や、スローカムの定義
・理論的基礎、知識的基礎をもつこと
・専門職団体が発達していること
・専門家としての価値観・倫理観をもつこと
・コミュニティに対する献身を旨とすること
・専門家としての自律性をもっていること
というのがあるらしい。

自分なりに噛み砕くと、
かっちりとした理論体系をもっていて、専門職団体が発達していて、自律的に自分で仕事を行い、そして、その仕事には公益性が存在する
というところか。
まあ、これは属性論な話で、それとは少し異なるアプローチで定義したMITで教鞭をとっていたドナルド=ショーンによると、
「自分が慣れ親しんでいない状況」「いまだ定義が定まっていない問題」と向き合い、自らの知識を駆使し、行為し、その中で考える

ということになるらしい。

だから、「プロフェッショナル」という言葉を吐いた人間が、果たして、
高度な知識をもてと言っているのか、
倫理を持てといっているのか、
泥臭いことも真摯に取り組めと言っているのか、
組織とは独立したコミュニティを持てといっているのか。
斟酌して対面する必要があるわけだ。

と話は発散したわけだが、結局のところ業務の評価しか観点が無いわけだから、

できないこと(QCDの観点で)はロジカルにできないことを説明し、
いくつかの次善の策とそのメリット・デメリットを示し、
コミットした仕事は最低限求められたQCDを満たす

といったことを指しているようで、、、

自分は技術屋としての能力を売って給料をもらっていると思っているので、至極当然のレベルに過ぎず、こういった自分の尺度を落としていくことの無いように、組織とは独立したコミュニティを持ちつづけないといけないなと思った年度末である。

2015年11月11日水曜日

OJT指導者は向いていないという話

昨日今日と、指名されてOJT指導者研修というのに行かされたわけなのですが、なんなんすかね?こんないじめっ子に対して。

集まってきている人々は、所長、部長から指名されてきているだけに、それなりに社内で上に行きたい志向の方々ばかりだったので、課長になるためには必須研修らしく、なんだか意気揚々としてるわけですが、こっちは会社にいつまでも居るつもりはないので、組織の強化につながるとか言われても、後輩指導とか正直興味ないんですよ。。。

で、2日間、後輩指導にあたってのスキルを教えてくれるわけですが、これがまたたいしたことないわけで。
OJTは個々にあった指導ができるとか言う割に、エゴグラムとか使って後輩のタイプを5タイプの型にはめて対応させようとする。
趣味の話とか生活習慣とか情報収集して、後輩を導いてあげなさい、とか、もう、小学生の先生になったんじゃないっつうの。

そもそも、無能なのを入れてるのは採用者の問題なわけで、採用活動してる偉いさんの尻拭いをなんで我々がさせられなきゃいけないのか。。。

この前、なべさんとも呑みながら話してたけど、悪人の僕は思うに、無能な人には自己能力を認識してもらってやめていただくのが一番お互いにとってハッピーなんだと思うのだが。。。

2015年7月19日日曜日

周りで乱発される努力という言葉

昨日書いたことの続きではないのだけど、今の職場の人はやたらと「頑張った」とか「努力」という言葉を使う。
これ、個人的にすごく違和感があるわけです。

もう、みんないい大人なんだからさ、努力は手段に過ぎなくて、目的じゃ無いでしょ?
「頑張った」とか「努力」そのものなんて評価の対象じゃないよ。
評価の基準はあくまでも結果であるべきで、その結果を得るために努力はするわけだ。
「結果はうまくいかなかったけど、頑張りました、ボク!」
って小学生か、って話。
頑張ることは手段だ。求める結果じゃない。
「でもボク頑張りました!」
関係ない。そんなこと聞いてない。
っつうか、努力なんてたいていの人が普通にしてる。
聞いてるのは、その仕事が何ヶ月も遅れて未だに結果が出ない理由だ。

まあ、でも、自分より上の人たちが、頑張ったならそれでいいっていう優しい価値観の人ばかりの職場で、上の仕事の仕方もそうだからそうなっちゃうんだろうけど。。。

そんなこと言いつつ、自分もわりと陥りがちなんだよね、気をつけていないと。
大きな目標を設定して、オーバーワークが続くと、どうしても「頑張ってる自分」に酔う瞬間がある。まあ、自分の場合は仕事じゃないケースばかりだけど。自己陶酔して、頑張ることが目的になり、本来の目的が二の次になってしまう。これ、中身や過程はどうあれ、上の「頑張ってます」な人と同じことだよね。でも、意外とやりがち。がむしゃらな努力で一瞬の自己満足を得るのではなくて、今やっていることが次の一歩に僅かでも活かされる努力をすること。それが正しい努力なのだと思う。
間違った努力をしないで、結果につながる正しい努力をして、結果だけを提示する。
それがあるべき姿だと思ってる。

と、書き連ねてきたけど、努力って何ですかね?
と言うか、どちらかと言うと、感じる違和感の本質は、どうもこちらのような気がする。
努力できることも才能、という人が居るけど、ちょっと違うよな、と思う。
個人的には「才能の差を埋める創意工夫と行動」が努力だと思う。
だから、出来る/出来ない じゃなくて、やるか/やらないか だ。
自分の影響力の範囲のど真ん中で、誰だってできること。

人には個人差があって、同じようにやっても差が出る。
それは事実として認めるし、仕方が無いことだと思う。
けど、それだけで諦めちゃったらつまんないでしょ?
頑張れば、絶対いけるとは言わないけど、意外といけるぞ、って思うわけ。
なぜなら、なんでも(努力すら)才能のせいにして、やらない人が結構多いから。
だから、ボクは努力にたいして重きを置いてるわけでも、好きなわけでもないけど、自分がこうありたい、こうなりたいという目的に必要だから、その手段として頑張ろうと思う。

話が逸れたけど、で、自分の思う努力の定義とちょっと違うんだよね。
君の言う「努力」ってやつのどこに君独自の創意工夫があるのかね?
っていつも思う。
しかも、常に創意工夫が求められやすい、研究開発職のはずの人なのに。

愚痴をツラツラと書いたわけだけど、それらを他山の石として、自分は染まらず、正しいと思う方向に向かいたい。

2015年7月18日土曜日

プロジェクトマネージメントの研修を受けていた

自らの意志で職場を移動して4年が経とうとしている。
そろそろ振り返るにはいい時期だと思うので、書き留める。

一番に思うことは、あれほど、異動時に色々考えた割には、それでも離れてみないと実感がもてないことがあるということ。

昨日、一昨日とPMBOK(プロジェクトマネージメント)の研修を指令で受けさせられていた。前の部署でチップリーダーをやったこともあるし、何を今さらと思って受けたわけだけど、案の定、用語やツール名を知らなかっただけで、今まで自分でこうすべきと思ってやっていたこと以上の知見を得るには至らなかった。

で、冒頭の実感を改めてもったこと。
あれほど中に居る時は生きづらい世の中だ、と思っていたことが、ある程度チームをマネージメントしていくためには必要だったということ。そして、それが今の組織ではできていない。いや、同じ研修をマネージャーも受けてるから形の上ではやろうとしている風には見える。でも、あくまでもやってる風に見せているだけで、効果が出るように正しくそのツールを使っていない。なぜなら、それを全うするためのそこそこ面倒な手続きを継続して行う習慣をマネージャー自身が持っていないから。上がそういう風であれば、そういう上司しか見てこなかった下の人たちは皆それに染まる。悪循環ですな。

じゃあ、なぜそれを異動時に気づいて、異動するのをやめられなかったのか?
まあ、一つは別の理由で、当時の上司から見て一つの駒にしか扱われていないような処置をされて嫌気がさしたこともあるのだけど、もう一つは、当時は開発の仕事にここまで管理業務は必要ないだろ、という風に思っていたから。
実際のところ、言葉面だけを受け止めれば同じ思いだ。
ただ、一点気づいたと言うか、前から気づいていたのに結びついてなかっただけなのだけど、「うちの会社にいる人間のレベルが低い」ということ。
自分の専門は電気なのだけど、会社内の電気技術者のレベルは正直低い。時々、お、この人そこそこやるな、と思うと中途採用で外から来た人であることが多い。
もともと、カメラの会社だから、小さい精密なものを作るメカの技術屋と光学屋さんはそこそこのレベルなんだろうけど、電気はしょぼい。ソフトも同じくらいしょぼいと思う。
だから、そういう集団なのだから管理が必要、ということ。

なので、managementというよりはcontrolすること、今の会社に居る限りはものごとうまく進めるためには、管理することを意識しないといけない、そんな風な気づきがあった研修受講だったということです。

2015年7月17日金曜日

青木の涙に思う

5/22だからもう1か月以上が経ってしまったけど、One Championshipのライト級タイトルマッチで、安藤晃司に青木信也が圧勝した映像を観た。

試合フィニッシュの際の振る舞いや諸々のコメントの影響で国内ではかなり不人気な格闘家になってしまっている青木君。あと、UFC信奉者にとってはUFCに目もくれない感じがアンチにさせてしまっている気がする。まあ、格闘技好きじゃないと知らないでしょうけど。。。

2001年のサンボの日本選手権で初めて会い、ちょうど太田章先生と若林次郎さんという早稲田閥で帰りに飯を食ったのを思い出す。当時から目立ちたがりだった彼は、柔道部の1年生でありながらなぜか大五郎カットにして外見から目立ってた。ただ、その風貌とは裏腹に話してみると、すごい朴訥とした好青年で、それでいて芯のしっかりした意志の強い人間であることがうかがえた。

確かに、試合後の態度など直すべき点があるとは思うけど、自分の商品価値を理解した上での振る舞いであり、ヒールにあえて徹しているとも言える。

そんな彼が、人目をはばからず涙したという。そして「日本じゃ、みんな、俺が負ければ良いと思ってんだよ」と言い続けていたという。

僕も青木君を嗜める格闘家の人と結構仲良くしてるのだけど、彼のこだわりみたいなものは嫌いじゃないな、と思ってる。
大学の後輩だからとかじゃなく。
それは、彼がホント格闘技おたくで、マニアなファンと比べても様々な格闘技の試合をよく見ているということ。その上で、醸成された寝技に対する強い拘りは一目を置くべきだと思っているところにも因る。
以前、「今の総合格闘技界は打撃偏重だからこそ、俺は寝技に拘る」と言っていたけど、その裏には、(暴力性を感じさせる)打撃によるKOが本人の意思とは関係なく起こるのと比べて、関節技や絞め技による一本勝ちは相手に自らの意思でタップさせることにより怪我のリスクを少なく、屈服させることが出来るので芸術的という彼なりの考えがある。

もう一つ共感するのは、UFCと契約しない事を問われて語った「人と同じキャリアを送りたくない。UFCと契約してしまうと自分のキャリアはUFCの作るキャリアになってしまう。『青木真也』が選択する『青木真也』オリジナルのキャリアを生みたい」というコメント。そして石澤さん(ケンドーカシン)とやった試合をこの前のタイトルマッチと並列で語り、今年の2試合目と言ったりするところ。

まあ、多分、そこには根底に流れる猪木信者(と勝手に決めつけてるのだけど。。。)なところが共通しているんだろうなあと思ったりするわけです。

だから、彼のブログを見たらみんな印象変わるんじゃないかな、って思う。
すごい素直な思いを真摯に書いてるから。

『そういえばなんですが僕がやってるMMAって本当に自分がやりたい事かって疑問に思う事が1ヶ月に何度かあるんですよ。誤解を招く事でもあるんでちゃんと説明しますね。

格闘技を好きか嫌いかって言うと好きですよ。それも結構なレベルで。

で何がつまんないなって感じているかと言うと勝つ為にケージに詰めてテイクダウンしてコントロールを優先順位で一番上に置いて相手を削って削って。。。。リスクを最小限に抑える為にラウンド終盤でサブミッションにトライする。勝つ為には最善の策であるとは思うんですけど自分が面白いか面白くないかで言うと正直微妙なんですよね。

もっと動いてサブミッション取り合って関節を追いかけ合う試合がしたいんですよね。
所英男中村大介みたいな試合と言えば格闘技ファンは分かってくれるだろうか。

試合と言うゲームで勝つ為の試合じゃなくて格闘技として強いサブミッション、
強い打撃をぶつけ合う格闘技がしたいと常々思ってます。

ゲームで勝ってもあんまり面白くないんだよな。

俺はなんだかんだでそのゲームで勝つ事も楽しめちゃうから困っちゃうんだけど。。。

俺がブラジリアン柔術にまったく興味が無くなったのって格闘技じゃなくてポイント取り合うゲームになってしまって格闘技としての意味はそこに無くなってしまったからなんだよね。それ打撃があったら意味ないじゃんって技術が多過ぎる。

柔術は好きなんでMMAの中で柔術を体現してくれる選手は大好きです。
その競技で通じない技術ではなく格闘技としての技術。

だからさ。MMAファイターってプロレスラーじゃなきゃいけないんだよ。
どんなルールでも闘わなきゃいけないしどんなルールでも勝ちにいかなきゃいけない。
いつ何とき誰の挑戦でも受けるって本当に名言だと改めて思う。』

2015年7月12日日曜日

あの頃の未来に僕らは立っているのかな

子供の頃に思い描いた自分になっているか?という趣旨の歌詞は結構いろんな歌で常套句として使用されてると思う。
昔は、そういう歌詞に感傷的な思いや一時的に気持ちを奮い起こすような気分にさせられた時もあったけど、最近変わってきた。
別に、スガシカオをディスるわけではなく。。。

例えば、
三十歳の頃、自分がドーバー海峡を横断するなんて考えていなかったし、
二十歳の頃は、新潟でコメ作りをするなんて思わなかったし、
十歳の頃は、海外の学会で自分が発表する姿なんて想像できなかった。

誰の言葉か知らないが、ヒトは想像できることは実現することができるという言葉がある。
そう、だから「あの頃の未来に僕らは立っている」なんてのは普通のことで、それを凌駕している自分になっていること、5年前には想像もできなかった自分になれていること、常にそうなっていたいな、って思う。


常にアンテナを張って、いつでも次なる自分の目指すべき高みを更新していけるようでありたい。

『No Boundaries』歌詞(意訳)

何秒、何時間、いや何日... 
どれくらい待てるかだ
欲しいものはわかってる

歩むべき道を誤っていたんじゃないか?
もうチャンスは訪れないんじゃないか?
自分が間違っていたんじゃないか?
後悔しはじめる

でもそんなことはない、
ひとつだけでいい
逃げ出さずに立ち向かえる理由がほしい
だってこうして頑張っているのだから

困難にぶち当たる度に
信じることが難しくなっても
痛みを乗り越え、嵐を切り抜け、
辿りつくんだ

道に行き詰まり
夢を諦めそうになった時も
自分の力で頑張るんだ
出来るんだって事を見せてやるんだ

崖っぷちでも戦ってきた
今日良い事があるかもしれない
たとえ明日が今日と同じでも、
未来がわからなくても、
僕を止められるものなど無い

これまでどんな困難も乗り越えてきたけど
ちゃんと理由がある、理由があるんだ
だから今もこうして頑張っているんだ

もっと高く、もっと深く、
極めようにも極みなどない、
限界なんてない
とらわれずに生きるんだ
自分と夢の間に境界線なんて存在しない
限界なんてない、限界はないんだ

2015年7月6日月曜日

それぞれの旅立ち

近頃、知り合いのいろいろな旅立ちが相次いでいる。

ゲル友達のN君が「いずれ大阪に戻ろうと思っていた」と言って、転職を決めて大阪へと行ってしまった。
田んぼによく来てくれたEliが今日、マウイに帰って行った。
それぞれ、僕も節目として考えていた30前後、25前後で、思う道へと踏み出して行った。

自分のできなかったことを実行できる人は眩しい。
応援する気持ちと、少しの嫉妬。
そして、自分への失望感。

一方、変わらない旅へ向かうのが軍曹。
数日前、北極圏のデッドホースに向かって旅立った。
生きて帰る保証の無い旅。

5年ごとに自分なりに節目と考えている年がもうすぐ訪れる。
ずっと思ってきた、東京から、サラリーマンから離れることは必ずしも強制的にしなくても良いのではないか、と自分の姿勢は変わってきている。
結局のところ、現実に埋没しちまったんじゃないかと人から言われたって、別に気にしなくなった。
自分の中では野望は広がったと思っているから。
サラリーマンとは言わずとも、こっちでやりたいことだって考えればあるのだから。
会社勤めをしてたって、それなりに自由にやれる立場になったのだから、やりたいようにやらしてもらおうと思ってる。
工業製品だって、農産物だって、趣味の手作り工作だって、
「作るにも、使うにも、面倒で愛らしい」ものをつくりたい。

そんな風に今は思っている。

2015年7月4日土曜日

ルーティーンという言葉に思うこと

会社で指導している3年目の父ちゃん坊やと話していて、いろいろイライラしたり、はぁ〜、と思ったりしているのだけど、最近「むむ」と思ったこと。

どんな仕事をふっても、必ず期限を守れないので、「この仕事は期限内にできる?」と聞いたら、「それならルーティーンワークだからできます」と返ってきた。
そういう意味で使う人が多いのかもしれないけど、「ルーティーン」って僕の中ではもっと高尚なものなのだ。

例えば、あるテニス選手がどうしても前のプレーの失敗を引きずってしまうので、ゲームが切れるサーブのタイミングごとに「リセット」とつぶやくルーティーンを決めた。
すると、その言葉自分に言い聞かせるような言葉となり、しっかりと切り替え、集中力が高まった。同じような有名な例だと、イチローがやたらルーティーンに拘るのはみんな知ってると思う。スポーツの例がわかりやすいから、スポーツをガッツリ真剣にやってた人はわかりやすいと思うのだけど、これはもちろん何にでも適用できる。

僕の場合は上記のようなコンセントレーションのために使う場合もあるし、その他、できなかったことを反復練習するということもルーティーンワークだと思ってるから、どっちかと言うとやるべきなかなかできないことをルーティーン化することが物事を処理する極意に近いんじゃないかともっと幅広く捉えている。

だから、ルーティーンワークならできます、とかなんか言葉を軽く使われると、なんかなあ、違うんだよなあ、と思ってしまうのだ。

2015年4月17日金曜日

ニュースについて

うちからテレビが消えて、12−3年になる。
新聞を購読しなくなってからは15−6年はたつだろうか。

このところ、たまに人の家でTVを観ると、タレントも知らない人が増えてきた。
おっさんになると、顔の区別がつかなくなる、というよりは初めて見るという人が増えました。

そんな中、話題になるニュースは比較的twitterとかFacebookで流れてきて、ほうほう、とか思ったりするのだけど、まあ、タイミングによっては凄く話題になってるニュースを全く知らない、というケースがあるわけです。

そんなとき、大丈夫か、こいつ?的な視線で「ニュースとか見ないの?」とよく言われます。そして、最近そんなケースが増えています。

適当に「そうですねぇぇ。。。」などと流すわけですが、正直に言うと興味が無い。
なんと言うか、世間とか、一般大衆向けに流される情報というヤツにすっかり興味が無いのです。

実際、ドイツ航空機の副操縦士の話だとか、大塚家具の話だとか、数日前に初めて知ったわけですけども、何ら自分の生活には支障はない。
第一、新聞とかTVをそこまで信用しているのってどうなんでしょう?
新聞記事やTV番組の一次情報にあたると言える、政府の発表やら大企業の会見やらありとあらゆる人たちが、どっちを向いても何の恥ずかし気も無く平気で嘘をつくこの時代、なんでそんな盲目的にみんな信用できるのでしょう?
仮に一次情報が信用に足るものであったとしても、それらに流れる内容にどこまで人のフィルタがかかって某か意図的なものになっているか、もしくはもっとレベルの低い恣意的な内容が含まれていることに多くの人が気づき始めてると思ってたのですが。。。
そして、何ヶ月も情報から遅れていたとしても、ネットでちょちょっと検索したら、それくらいの質の情報であれば、あっという間にキャッチアップできるこの時代、新聞とかTVで定常観察する必要ってなんなんでしょう?
というのが、僕のスタンスです。

本当に自分の知りたいことだったら、メディアが知る前に自分で情報ちゃんと取るからね。

2015年1月3日土曜日

大塚君の試合に思うこと

昨年の話ですが、大晦日のDEEP。
石渡伸太郎vs大塚隆史。
気合いの入ったバチバチの闘いでした。

テイクダウンを奪う大塚君に、立ちまくる石渡。
石渡のパンチで相当ダメージ受けた大塚君に対して、仕留めにいく石渡に、しのぐ大塚。

止められてもおかしくない状態で打ち合いに挑む大塚君の燃え上がるファイティングスピリットを石渡の拳圧がかき消した。
壮絶に散った大塚君を賞賛する声は大きい。

素晴らしいファイティングスピリットだったと僕も思うんです。
あの状況下で、もう限界だった大塚君がもう一踏ん張りして、100%以上を出そうとしたことは、凄いと思う。
でも、あそこで最後に撃ち合いにいくことがベストチョイスだっただろうか?
100%以上を振り絞ることで、得られるものの最大の効果は、それによるフィードバックだと思う。
何事も、80%でやってたらそのフィードバックだって80%でしか帰ってこない。100%以上のフィードバックは、100%以上を自分が出した時に初めて得られるのだ。
で、大塚君はあの最後の撃ち合いでそのフィードバックを得られたのか?
それは怪しいと思う。
ほぼ全ての人にあの結末は見えていたわけで、言葉は悪いけど、本人が納得するためだけの選択でしかなかった。
あの場面でも、あえて、テイクダウンに行くことに拘っていたら(もちろんそれが困難だったことはわかって書いているけど)、何かより大きなものが得られたんじゃないか?って思ったりするのだ。

こんなことを書いたけど、素晴らしいファイトだった。

2015年1月1日木曜日

死ぬまでにやりたいことリストの更新

・ナクル湖のフラミンゴが一斉に飛び立つ瞬間を写真に収める
・トリニダード・トバゴのカーニバルでリンボーダンスとスティールパン参戦
・サルバドールのカーニバルに行ってボイコさんと再会する
・鏡のウユニ湖で写真を撮る
・杏子の花が咲き誇るフンザで深呼吸する
・イグアスの滝にうたれる
・ルワンダでゴリラと並んでノグソする

・ブラジルでストリートかポエィラする
・ニューオリンズのバーでLIVEにまみれる
・大切な人の告別式でアルトサックスで「別れの曲」を吹く
・かっこいい抜刀術を身につける
・カストロの生きてるうちにキューバの空気を吸う
・ハワイIRONMANでコナウィンドを体で感じる
・コムラッズマラソンで笑顔でゴールする
・エクスペディションレースXPDのFinisherになる
・ブータン映画にもう一度出演して、劇場公開する
・スリランカの列車で出会って一緒に撮った写真を渡して回る旅に出る
・ロシアでサンボの試合に出る
・日付変更線を跨いで明日へ架ける立ちしょんをする
・死海でウォーターロックラグビーをする
・海外に自分の所有する民族的なゲストハウスを建てる
・ただいまと言える場所を50か所つくる
・人生の節目に木を植える
・記念日に自分で花火を打ち上げる
・自宅の庭にツリーハウスをつくる
・住む家を自分で建てる
・どぶろくを作って、新酒の時期に自作の杉玉を飾る
・発泡酒資格を取って自家製ビールを作る
・いつきてもごはんがあって、ふるまえる家にする
・なにかやりたい!と思った時に、やろう!と助けてくれる仲間をたくさんつくる
・マイガラムマサラをつくる
・種を全部自家採取する
・自分で仕留めた獣はいただく命に恥ずかしくないレベルでさばけるようになる
・競走馬のオーナーになる
・短角和牛のオーナーになる
・夕陽を眺めることができる生活をする
・和服で暮らす
・旧暦で暮らす
・自叙伝を出す
・映画を撮る
・自分が携わった製品を自室に陳列する
・自給自足&物々交換で生活する
・エネルギーも自給する
・死ぬ時に資産がちょうどプラスマイナスゼロになる
・最後まで好きなことをして死ぬ

・アボリジニと一緒にディジュリドゥを吹く
・空港の滑走路に寝そべって流れ星を観る
・バーで「あちらのお客様からです」をする
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△UTMB
△トランスエゾ
△LEL1400
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レ正月には自作の注連縄と門松を飾る
レ田んぼの土で作った茶碗で炊きたての新米を食べる
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×日本人初のカタリーナ海峡横断泳者になる